織田信長 年表 織田信長の歴史と歩み

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織田信長の運の強さ/年表[31]-[32]

反信長派、再び/31-32

信長の館(安土城復元天守)天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任する。

12月、信長は嫡男・織田信忠に織田家の家督、並びに美濃・尾張などの領地を譲って隠居した。しかし隠居とは名ばかりであり、なおも信長は織田家の政治・軍事の一切を執行する「上様」の立場にあった。

天正4年(1576年)1月、信長は近江国琵琶湖々岸に安土城の造成を開始する。これは天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。 天主内部は吹き抜け構造となっていたと言われている。 イエスズ会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長はかつての居城岐阜城を嫡子信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。

信長はこの城を拠点に天下一統(近年、俗に天下統一とも言う)事業に邁進することとなる。ちなみに、この安土城築城は信長自ら指揮を執った。

天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波の波多野秀治が叛旗を翻した。 さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。これに対して信長は4月、明智光秀や荒木村重、原田直政を大将とした3万の軍勢を大坂に派遣したが、5月の葦原の戦いで織田軍は大敗を喫し、原田直政をはじめ1000人以上が戦死してしまった。

大坂の織田軍は勢いづく石山勢の攻勢に窮し、光秀らは天王寺砦に立て籠もったが、石山勢はこれを大軍で包囲し、天王寺における織田勢は窮地に陥った。これに対して信長は5月5日に若江城に入って動員令を出したが、集まった軍勢は3000人ほどでしか無かった。ところが信長は5月7日早朝、そのわずか3000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する石山勢1万5000人に襲いかかったのである。

この戦いは天王寺砦の戦いと呼ばれ、信長自身も負傷するという激戦となったが、信長自らの出陣で士気を高揚させた織田軍は、明智光秀が砦から出撃したこともあって石山勢を遂に撃破することに成功した。

その後、織田軍は石山御坊を水陸から包囲して兵糧攻めに追い込んだ。ところが7月13日、石山本願寺の援軍として現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は木津川の戦いで大敗し、毛利勢によって石山には兵糧弾薬が運び込まれることとなった。

また、この頃になると、北陸で新たな強敵が出現した。越後の龍と呼ばれる戦国最強の戦国大名・上杉謙信である。 信長と謙信は、武田信玄という共通の敵と対抗するために元亀3年(1572年)に同盟を結んでいた。 しかし信玄が病死し、さらに信長の度重なる宗教勢力への虐殺に激怒した謙信は、天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦して信長との同盟を破棄し、信長との対立を表明したのである。さらに謙信を盟主として、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長として同調し、決起した。

これに対して信長は、天正5年(1577年)2月、紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣する。しかし、毛利水軍による背後からの援助や、謙信による能登侵攻などもあって、信長は3月に入ると、形式的に雑賀衆の頭領・雑賀孫一を降伏させたという。 ただし、人質提供も何も無い完全な形だけのもので、形式的な和睦を行ない紀伊から撤兵した。

一方、謙信の攻勢に持ちこたえていた能登七尾城の長続連は、信長に対して援軍を要請する。信長はこれに対して柴田勝家を総大将とした3万を前軍、自らが率いる本隊1万8000人を後軍として出陣する。

しかし9月15日に七尾城は落城し、9月23日に前軍の織田軍は、謙信自らが率いる上杉軍の前に手取川の戦いで大敗を喫してしまった。信長はこれを知って謙信と衝突することを避けて、安土に帰還した。

この敗戦により、大和の松永久秀が謙信と呼応して信長に叛旗を翻した。 しかし信長は加賀から撤兵するや、織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣して、10月に久秀を爆死に追い込んだ。しかし謙信との戦いで不利な立場に立った信長は、毛利氏や石山本願寺の攻勢などもあって再び苦境に立たされていた。 しかしこの頃、信長は幸運に恵まれていた。

久秀を討った10月、信長に対して反抗していた丹波亀山城の内藤定政が病死し、すかさず明智光秀率いる織田軍が亀山城や籾井城、笹山城などの丹波の諸城の大半を攻略したのである。

天正6年(1578年)3月13日には上杉謙信が急死する。 しかも謙信には実子がいなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎをもぐって争い始めた。 この間に、柴田勝家率いる北陸軍団は上杉領となっていた能登と加賀に侵攻し、同地を奪ってしまった。

そして謙信の死去により、またも信長包囲網は崩壊したのである。

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織田信長 年表

元号

西暦

信長の歩み

天文3

1534

尾張守護代織田大和守家奉行織田信秀の嫡男として、 海東郡勝幡城に誕生する。母土田御前、幼名吉法師。[1]

天文7

1538

信秀が吉法師を那古野城主とする。 美濃守護代齋藤利良死去。信秀が大垣城の竹腰氏を倒した。[2]

天文9

1540

信秀、三河安祥城を攻撃、城將松平長家・松平信康を戰死させるも藤井城主松平利長に撃退されてしまう。[3]

天文10

1541

松平広忠、三河刈谷城主水野忠政の息女於大を娶る。齋藤利政が常在寺で入道し斎藤道三と名乘る。[4]

天文11

1542

駿河軍が三河・正田原へ進出。安祥城の信秀、 駿河軍の由原と小豆坂に交戰、清洲衆の那古野弥五郎が戰死。この年、松平竹千代が岡崎城で誕生する。[5]

天文12

1543

松平広忠が三河三木城を攻略、城主松平信孝が信秀方へ走る。松平広忠が信秀に内通した水野信元の息女の正室於大を岡崎から追放。[6]

天文15

1546

古渡城に元服して織田三郎信長と名乘る。[7]

天文16

1547

渥美郡田原城主戸田康光の家臣又右衞門が、駿河府中へ 護送中の松平竹千代を塩見坂に奪う。
松平広忠・駿河軍が戸田康光の三河渥美郡田原城を攻略したので、 信秀、三河に侵入する。三木城主松平信孝・上和田の松平忠倫が岡崎城を狙い、松平広忠と戰う。 三河渡里で松平広忠と大岡郷山崎城主松平信孝が戰う。松平広忠が松平忠倫を暗殺する。[8]

天文17

1548

駿河軍、尾張大高城を攻撃するが敗退。松平広忠が 三河山中城主松平重弘を攻める。信秀、古渡城を破却し、末森に築城する。 織田軍、三河西野・鴫原の合戰で松平家臣血槍九郎長坂信政に一番槍で楯を破られる。[9]

天文18

1549

齋藤道三の娘濃姫、尾張の織田信長の元へ輿入れ。 岡崎城主松平広忠、西加茂郡広瀬城主佐久間全孝の謀略により岡崎城で家臣岩松八弥に 刺される。植村出羽守氏明が岩松八弥を斬る。松平広忠死去。[10]

天文20

1551

末森城を織田勘十郎信行に與え、柴田權六勝家・ 佐久間次右衞門信盛を添え置く。[11]

天文22

1553

齋藤道三と富田の正徳寺に会見。 海東郡蜂須賀村の首領が死去、蜂須賀小六正勝が後を継いだ。[12]

天文23

1554

齋藤道三隠居、齋藤新九郎利尚(義龍)に家督を讓る。[13]

天文24

1555

駿府の松平竹千代が吉良義安の理髪で元服、 松平次郎三郎元信と名乘る。齋藤利尚(義龍)が長井道利と謀り稲葉山城内へ見舞いに来た齋藤孫四郎・ 齋藤右兵衛大輔喜平次を殺害して齋藤道三と敵對。織田信光が那古野城内で坂井孫八郎に暗殺される。[14]

弘治2

1556

齋藤道三から齋藤勘九郎宛の遺言状で美濃を譲られる。 齋藤道三が齋藤利尚(義龍)と長良川に交戰、長井忠左衞門・小牧源太に討たれる。清洲の町家割・道路普請を命じる。 齋藤義龍が美濃慧那郡明智城を陥し、城主明智兵庫頭光安宗宿自害、城主明智兵庫頭光安宗宿の家臣、 明智十兵衞光秀出奔。[15]

弘治4

1558

駿府の松平元信が初陣、三河加茂郡寺部城に鈴木重辰を 攻める。松平元信、松平元康と改名。[16]

永祿1

1558

木下藤吉郎に丹羽郡郡村の脇村・加納馬場で15貫文の給地。 前田又左衞門利家が篠原松と結婚。今川義元が鵜殿藤太郎長照を尾張大高城の守將とした。[17]

永祿3

1560

今川治部大輔義元、三河守に任官。今川義元、 駿河府中を出陣。義元、沓懸城に着陣。正午、今川義元本軍、大高へ向う。鳴海で佐々隼人正勝通戰死。 午後、田樂狹間を急襲、服部春安が義元に斬り付け、毛利良勝が今川義元を討つ。 三河大樹寺の松平元康、岡崎城入城。岡崎城主松平元康に擧母・梅ヶ坪・広瀬・伊保・沓懸の砦を攻め陥される。[18]

永祿4

1561

水野信元が岡崎城主松平元康と和睦を斡旋、纏まらず。 松平元康臣酒井正親、幡豆郡東條城主吉良義昭を降す。[19]

永祿5

1562

清洲城で松平元康と會見、同盟を結ぶ。 岩倉城主織田信賢を攻めて追放する。[19]

永祿6

1563

松平竹千代と五徳を婚約させ竹千代に信康の名を與える。 清洲城から小牧山城へ移る。 松平元康が東條城を陥し、吉良義昭逃亡。松平元康、松平家康と改名。[20]

永祿8

1565

征夷大將軍足利義輝が京都室町新邸で松永久秀・ 三好三人衆に殺される。甲斐武田晴信と同盟成立する。今川氏眞が駿府に飯尾連龍を殺す。[21]

永祿9

1566

尾張守を称する。 松平家康、清和源氏新田氏系の徳川姓に改め、從五位・三河守に任官される。[22]

永祿10

1567

尾張守に任官。稲葉山城開城、齋藤龍興、河内長嶋へ 立ち退いた後、伊勢長嶋を攻撃する。織田五徳が三河岡崎城の徳川信康の元へ輿入れ。[23]

永祿11

1568

一乘谷安養寺の足利義秋、元服し足利義昭と改名。 武田軍が駿河、徳川軍が遠江に侵攻する。徳川家康、曳馬城入城。 徳川家康、掛川城の今川氏眞を攻める。[24]

永祿12

1569

徳川家康、遠江掛川城付近の天王山を陥す、 今川家臣の伊藤武兵衞戰死。徳川家康が今川氏眞の掛川城を総攻撃、落城せず。 將軍、本圀寺から大略竣工した二條城に移る。伊勢木造・戸木城主從五位下木造具政・木造長政が降伏。 京に入る。 將軍に伊勢平定を報告。 [25]

永祿13

1570

若狹天ヶ城主内藤筑前守勝行が服したので丹羽長秀に 属させる。摂津池田城主池田知正を荒木村重の配下にする。 畿内近國の諸大名に上洛を求める、將軍に五箇條の條書を送る。[26]

元亀1

1570

朝倉中務大輔景恒が退城した金ヶ崎城を占領。 明智光秀・丹羽長秀を若狹に派遣、長光寺に柴田勝家、安土城に中川八郎右衞門を置く。
徳川家康と姉川に朝倉・淺井連合軍を破る、朝倉・淺井連合軍が大津坂本口を襲う。
將軍を供奉して都に戻る。下坂本の淺井・朝倉連合軍を比叡山に追う。朝倉軍、比叡山から撤退。 佐和山城主磯野員昌降伏。 丹羽長秀を佐和山城に入れる。
{比叡山延暦寺焼き打ち}[27]

元亀3

1572

上洛、二條妙覺寺に宿泊する。 本願寺顕如光佐、武田信玄への書簡で信長攻撃を要請する。本願寺教如光壽と朝倉義景娘との婚約が成立。
武田信玄、信長追討の將軍御内書を受け取る。將軍に十七條の意見書を送る。 甲斐武田軍先鋒、三河に向け出軍。武田信玄が朝倉義景・淺井長政に出陣を報告する。 武田軍遠江二俣城包囲の報を受ける。上杉謙信に同盟を求める書状を送る。 織田・徳川連合軍、三方ヶ原で武田信玄に撃破され、佐久間信盛逃亡。武田信玄が朝倉義景を非難した。[28]

元亀4

1573

藤堂高虎が織田信澄に仕える。 武田信玄により三河野田城陥落。今堅田を攻め落とす。 明智光秀、坂本城に入る。 二條城を包囲し上京に放火する。甲斐守護武田信濃守晴信信玄、信濃伊那郡駒場に死去。[29]

天正1

1573

河内若江の將軍が柳澤元政を毛利家に派遣し、 幕府再興への協力を督促する。府中龍門寺に朝倉景鏡が義景の首を持參。
義景母光徳院と朝倉阿君丸を 丹羽長秀に命じて殺す。羽柴筑前守秀吉を通じて恭順した淺井井規を殺す。 淺井家臣日根野弘就が 淺井十郎を殺害し歸順。
羽柴秀吉、小谷城京極丸を陥し、淺井福壽庵自害。 淺井久政、鶴松大夫の介錯で自害した。
羽柴秀吉に命じて淺井萬福丸を関ヶ原に串刺し磔刑で殺す。 淺井久政夫人を指切りの後殺す。
織田奇妙丸が元服、織田勘九郎信重(後、信忠)と名乘る。武田勝頼が三河足助方面へ出兵。 織田菅九郎信忠と岐阜を出陣、熱田に着陣、熱田神宮摂社八剣宮修復を大工岡部又右衞門に命じる。 武田勝頼が鳥居強右衞門を篠馬野で磔殺する。長篠設樂原郷の極樂寺山に設陣。長篠設樂原に武田勝頼を破る 徳川家康が駿河に侵攻、織田信忠、岩村に着陣。北庄から府中へ行く。 徳川家康、諏訪原城を陥す。 權大納言に任官する。右近衞大將を兼任。[30]

天正4

1576

安土城の普請を命じる。 玉澗筆市の絵を丹羽長秀に、 大軸の掛け絵を羽柴筑前守秀吉に與える。正三位に昇進。内大臣に昇進[31]

天正5

1577

上洛、二條新邸に入る。 從二位・右大臣に昇進、右大臣一條内基が左大臣に昇進、九條兼孝は左大臣免官。[32]

天正7

1579

安土城竣工、天主閣に移る。 徳川家康、岡崎城主徳川信康を三河大濱に移らせる。 徳川家康が二俣城の徳川信康を自害させる。徳川家康、正室築山殿を殺害させる。 北條氏政から武田攻めの報告。[33]

天正9

1581

徳川家康が高天神城を陥す 一條内基が関白に就任。 羽柴秀吉・池田勝九郎が淡路を平定した。安土へ歳暮の挨拶に來た羽柴秀吉に、感謝状と茶道具を下賜。[34]

天正9

1581

羽柴秀吉が備前岡山城に到着。 徳川家康・穴山梅雪が近江番場の仮館に到着、惟住長秀がもてなす。惟任光秀・筒井順慶・長岡忠興・池田恒興・ 高山長房・中川清秀に中国攻めを命じる。上洛、本能寺に入る。 徳川家康、堺に到着。明智惟任日向守光秀が 京都本能寺を攻撃。[35]

天正9

1581

本能寺殿内に火を放ち自害する。49歳。[36]

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