織田信長 年表 織田信長の歴史と歩み

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信長 比叡山延暦寺を焼き討ち〜戦い狂う日々/年表[25]-[29]

修羅 魔王信長/25-29

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限するため、「殿中御掟」9か条の掟書、のちには追加7か条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これにより義昭と信長の対立は決定的なものになっていく。

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、盟友の徳川家康軍と共に越前に侵攻を開始する。 織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と落としていくが、金ヶ崎へ進軍したところで、突然、北近江の盟友であった浅井長政に裏切られ、織田・徳川連合軍は背後を突かれる形となった。

突然の窮地に追い込まれた信長だが、殿軍を務めた木下秀吉(藤吉郎より改め)、徳川家康らの奮闘(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れた。信長が京に帰還したとき、従う者はわずか10名ほどであったと言われている。

これを契機に将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化し、義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。

これに対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川家康軍と共に浅井・朝倉連合軍と戦う(姉川の戦い)。

浅井方の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦するが、徳川家康や美濃三人衆の奮戦もあり、遂に浅井・朝倉連合軍を破った。

元亀元年(1570年)8月、信長は摂津で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する。

しかも信長本隊が攝津に対陣している間に軍勢を立て直した浅井長政・朝倉義景・延暦寺などの連合軍3万が、近江坂本に侵攻する。これに対して織田軍も抵抗したが、衆寡敵せず、信長重臣の名将といわれた森可成と信長実弟の織田信治は戦死してしまった。

これに対して信長は、9月23日未明に急ぎ本隊を摂津から近江に戻すという神速とも言えるスピードで帰還する。慌てた浅井長政、朝倉義景らは比叡山に立て籠もって抵抗する。これに対して信長は近江国志賀において浅井・朝倉連合軍と対峙した(志賀の陣)。

しかしその間に本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島の一向一揆が叛旗を翻して、信長は実弟の織田信興、重臣の坂井政尚らを失い、進退に窮する。このため信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日に勅命によって浅井・朝倉軍と和睦することに成功した。

このとき、大久保忠教の記した「三河物語」によれば、信長は義景に対して、「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望みなし」とまで言ったという。

元亀2年(1571年)9月、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、高僧女子供まで3000人余りを皆殺しにする。これは浅井・朝倉連合軍に対して延暦寺が協力したことに対する報復であったと言われている。

元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(のちの織田信忠)を初陣させた。

この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は信長有利に展開し、8月には朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に降伏していったという。

10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。

武田軍の総兵力は3万。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江、三河に侵攻を開始する。これに対して織田・徳川軍も抵抗した。

しかし武田軍の武将・秋山信友に攻められた東美濃の岩村城では、城主の遠山景任(直廉)が病死。その景任未亡人のおつやの方(信長の叔母)は、信長の五男・坊丸(のちの織田勝長)を養子にして女城主として抵抗するが、秋山信友はこのおつやの方に対して結婚戦術を持ちかけた。実は、おつやの方の娘・雪姫は武田勝頼と結婚して武田信勝を出産していた経緯から、武田氏とも縁戚関係にあったのだ。 そのため、おつやの方は秋山信友と結婚することで開城・降伏し、坊丸は甲斐に人質として送られ、東美濃の大半も武田の支配下に落ちた。

また、徳川領においても徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江、三河の諸城が次々と落ちていくという戦況不利な状況にあった。これに対して信長は、家康に佐久間信盛、平手汎秀ら3000の援軍を送ったが、12月の遠江三方原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗して平手汎秀らは討死し、信長は窮地に陥った。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江から三河に侵攻し、2月には三河野田城を攻略する。しかも信玄の上洛に呼応する形で、将軍・足利義昭が三好義継・松永久秀らと協力して挙兵に及んだ。

東西に敵を抱えた信長はまたも進退に窮し、4月5日、正親町天皇から勅命を出させることによって義昭と和睦したのである。そして4月12日、信長最大の強敵であった武田信玄は病死し、武田軍は甲斐に帰国することとなった。

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織田信長 年表

元号

西暦

信長の歩み

天文3

1534

尾張守護代織田大和守家奉行織田信秀の嫡男として、 海東郡勝幡城に誕生する。母土田御前、幼名吉法師。[1]

天文7

1538

信秀が吉法師を那古野城主とする。 美濃守護代齋藤利良死去。信秀が大垣城の竹腰氏を倒した。[2]

天文9

1540

信秀、三河安祥城を攻撃、城將松平長家・松平信康を戰死させるも藤井城主松平利長に撃退されてしまう。[3]

天文10

1541

松平広忠、三河刈谷城主水野忠政の息女於大を娶る。齋藤利政が常在寺で入道し斎藤道三と名乘る。[4]

天文11

1542

駿河軍が三河・正田原へ進出。安祥城の信秀、 駿河軍の由原と小豆坂に交戰、清洲衆の那古野弥五郎が戰死。この年、松平竹千代が岡崎城で誕生する。[5]

天文12

1543

松平広忠が三河三木城を攻略、城主松平信孝が信秀方へ走る。松平広忠が信秀に内通した水野信元の息女の正室於大を岡崎から追放。[6]

天文15

1546

古渡城に元服して織田三郎信長と名乘る。[7]

天文16

1547

渥美郡田原城主戸田康光の家臣又右衞門が、駿河府中へ 護送中の松平竹千代を塩見坂に奪う。
松平広忠・駿河軍が戸田康光の三河渥美郡田原城を攻略したので、 信秀、三河に侵入する。三木城主松平信孝・上和田の松平忠倫が岡崎城を狙い、松平広忠と戰う。 三河渡里で松平広忠と大岡郷山崎城主松平信孝が戰う。松平広忠が松平忠倫を暗殺する。[8]

天文17

1548

駿河軍、尾張大高城を攻撃するが敗退。松平広忠が 三河山中城主松平重弘を攻める。信秀、古渡城を破却し、末森に築城する。 織田軍、三河西野・鴫原の合戰で松平家臣血槍九郎長坂信政に一番槍で楯を破られる。[9]

天文18

1549

齋藤道三の娘濃姫、尾張の織田信長の元へ輿入れ。 岡崎城主松平広忠、西加茂郡広瀬城主佐久間全孝の謀略により岡崎城で家臣岩松八弥に 刺される。植村出羽守氏明が岩松八弥を斬る。松平広忠死去。[10]

天文20

1551

末森城を織田勘十郎信行に與え、柴田權六勝家・ 佐久間次右衞門信盛を添え置く。[11]

天文22

1553

齋藤道三と富田の正徳寺に会見。 海東郡蜂須賀村の首領が死去、蜂須賀小六正勝が後を継いだ。[12]

天文23

1554

齋藤道三隠居、齋藤新九郎利尚(義龍)に家督を讓る。[13]

天文24

1555

駿府の松平竹千代が吉良義安の理髪で元服、 松平次郎三郎元信と名乘る。齋藤利尚(義龍)が長井道利と謀り稲葉山城内へ見舞いに来た齋藤孫四郎・ 齋藤右兵衛大輔喜平次を殺害して齋藤道三と敵對。織田信光が那古野城内で坂井孫八郎に暗殺される。[14]

弘治2

1556

齋藤道三から齋藤勘九郎宛の遺言状で美濃を譲られる。 齋藤道三が齋藤利尚(義龍)と長良川に交戰、長井忠左衞門・小牧源太に討たれる。清洲の町家割・道路普請を命じる。 齋藤義龍が美濃慧那郡明智城を陥し、城主明智兵庫頭光安宗宿自害、城主明智兵庫頭光安宗宿の家臣、 明智十兵衞光秀出奔。[15]

弘治4

1558

駿府の松平元信が初陣、三河加茂郡寺部城に鈴木重辰を 攻める。松平元信、松平元康と改名。[16]

永祿1

1558

木下藤吉郎に丹羽郡郡村の脇村・加納馬場で15貫文の給地。 前田又左衞門利家が篠原松と結婚。今川義元が鵜殿藤太郎長照を尾張大高城の守將とした。[17]

永祿3

1560

今川治部大輔義元、三河守に任官。今川義元、 駿河府中を出陣。義元、沓懸城に着陣。正午、今川義元本軍、大高へ向う。鳴海で佐々隼人正勝通戰死。 午後、田樂狹間を急襲、服部春安が義元に斬り付け、毛利良勝が今川義元を討つ。 三河大樹寺の松平元康、岡崎城入城。岡崎城主松平元康に擧母・梅ヶ坪・広瀬・伊保・沓懸の砦を攻め陥される。[18]

永祿4

1561

水野信元が岡崎城主松平元康と和睦を斡旋、纏まらず。 松平元康臣酒井正親、幡豆郡東條城主吉良義昭を降す。[19]

永祿5

1562

清洲城で松平元康と會見、同盟を結ぶ。 岩倉城主織田信賢を攻めて追放する。[19]

永祿6

1563

松平竹千代と五徳を婚約させ竹千代に信康の名を與える。 清洲城から小牧山城へ移る。 松平元康が東條城を陥し、吉良義昭逃亡。松平元康、松平家康と改名。[20]

永祿8

1565

征夷大將軍足利義輝が京都室町新邸で松永久秀・ 三好三人衆に殺される。甲斐武田晴信と同盟成立する。今川氏眞が駿府に飯尾連龍を殺す。[21]

永祿9

1566

尾張守を称する。 松平家康、清和源氏新田氏系の徳川姓に改め、從五位・三河守に任官される。[22]

永祿10

1567

尾張守に任官。稲葉山城開城、齋藤龍興、河内長嶋へ 立ち退いた後、伊勢長嶋を攻撃する。織田五徳が三河岡崎城の徳川信康の元へ輿入れ。[23]

永祿11

1568

一乘谷安養寺の足利義秋、元服し足利義昭と改名。 武田軍が駿河、徳川軍が遠江に侵攻する。徳川家康、曳馬城入城。 徳川家康、掛川城の今川氏眞を攻める。[24]

永祿12

1569

徳川家康、遠江掛川城付近の天王山を陥す、 今川家臣の伊藤武兵衞戰死。徳川家康が今川氏眞の掛川城を総攻撃、落城せず。 將軍、本圀寺から大略竣工した二條城に移る。伊勢木造・戸木城主從五位下木造具政・木造長政が降伏。 京に入る。 將軍に伊勢平定を報告。 [25]

永祿13

1570

若狹天ヶ城主内藤筑前守勝行が服したので丹羽長秀に 属させる。摂津池田城主池田知正を荒木村重の配下にする。 畿内近國の諸大名に上洛を求める、將軍に五箇條の條書を送る。[26]

元亀1

1570

朝倉中務大輔景恒が退城した金ヶ崎城を占領。 明智光秀・丹羽長秀を若狹に派遣、長光寺に柴田勝家、安土城に中川八郎右衞門を置く。
徳川家康と姉川に朝倉・淺井連合軍を破る、朝倉・淺井連合軍が大津坂本口を襲う。
將軍を供奉して都に戻る。下坂本の淺井・朝倉連合軍を比叡山に追う。朝倉軍、比叡山から撤退。 佐和山城主磯野員昌降伏。 丹羽長秀を佐和山城に入れる。
{比叡山延暦寺焼き打ち}[27]

元亀3

1572

上洛、二條妙覺寺に宿泊する。 本願寺顕如光佐、武田信玄への書簡で信長攻撃を要請する。本願寺教如光壽と朝倉義景娘との婚約が成立。
武田信玄、信長追討の將軍御内書を受け取る。將軍に十七條の意見書を送る。 甲斐武田軍先鋒、三河に向け出軍。武田信玄が朝倉義景・淺井長政に出陣を報告する。 武田軍遠江二俣城包囲の報を受ける。上杉謙信に同盟を求める書状を送る。 織田・徳川連合軍、三方ヶ原で武田信玄に撃破され、佐久間信盛逃亡。武田信玄が朝倉義景を非難した。[28]

元亀4

1573

藤堂高虎が織田信澄に仕える。 武田信玄により三河野田城陥落。今堅田を攻め落とす。 明智光秀、坂本城に入る。 二條城を包囲し上京に放火する。甲斐守護武田信濃守晴信信玄、信濃伊那郡駒場に死去。[29]

天正1

1573

河内若江の將軍が柳澤元政を毛利家に派遣し、 幕府再興への協力を督促する。府中龍門寺に朝倉景鏡が義景の首を持參。
義景母光徳院と朝倉阿君丸を 丹羽長秀に命じて殺す。羽柴筑前守秀吉を通じて恭順した淺井井規を殺す。 淺井家臣日根野弘就が 淺井十郎を殺害し歸順。
羽柴秀吉、小谷城京極丸を陥し、淺井福壽庵自害。 淺井久政、鶴松大夫の介錯で自害した。
羽柴秀吉に命じて淺井萬福丸を関ヶ原に串刺し磔刑で殺す。 淺井久政夫人を指切りの後殺す。
織田奇妙丸が元服、織田勘九郎信重(後、信忠)と名乘る。武田勝頼が三河足助方面へ出兵。 織田菅九郎信忠と岐阜を出陣、熱田に着陣、熱田神宮摂社八剣宮修復を大工岡部又右衞門に命じる。 武田勝頼が鳥居強右衞門を篠馬野で磔殺する。長篠設樂原郷の極樂寺山に設陣。長篠設樂原に武田勝頼を破る 徳川家康が駿河に侵攻、織田信忠、岩村に着陣。北庄から府中へ行く。 徳川家康、諏訪原城を陥す。 權大納言に任官する。右近衞大將を兼任。[30]

天正4

1576

安土城の普請を命じる。 玉澗筆市の絵を丹羽長秀に、 大軸の掛け絵を羽柴筑前守秀吉に與える。正三位に昇進。内大臣に昇進[31]

天正5

1577

上洛、二條新邸に入る。 從二位・右大臣に昇進、右大臣一條内基が左大臣に昇進、九條兼孝は左大臣免官。[32]

天正7

1579

安土城竣工、天主閣に移る。 徳川家康、岡崎城主徳川信康を三河大濱に移らせる。 徳川家康が二俣城の徳川信康を自害させる。徳川家康、正室築山殿を殺害させる。 北條氏政から武田攻めの報告。[33]

天正9

1581

徳川家康が高天神城を陥す 一條内基が関白に就任。 羽柴秀吉・池田勝九郎が淡路を平定した。安土へ歳暮の挨拶に來た羽柴秀吉に、感謝状と茶道具を下賜。[34]

天正9

1581

羽柴秀吉が備前岡山城に到着。 徳川家康・穴山梅雪が近江番場の仮館に到着、惟住長秀がもてなす。惟任光秀・筒井順慶・長岡忠興・池田恒興・ 高山長房・中川清秀に中国攻めを命じる。上洛、本能寺に入る。 徳川家康、堺に到着。明智惟任日向守光秀が 京都本能寺を攻撃。[35]

天正9

1581

本能寺殿内に火を放ち自害する。49歳。[36]

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